吉村昭の小説「赤い人」にこのような記述がある。「囚人たちは(中略)そこから定山渓をへて洞爺湖をまわり虻田におもむく」とは、本願寺道路を使ったと思われるが、これを裏付ける資料はないだろうか。 (社会人/男性) |
「赤い人」(文庫版)に付いていた「参考資料」を順次あたってゆくが、それらしき記述は一向に出てこない。年度末の忙しさ故、調査は一時中断。 |
同じ調査を続けていた郷土史家のH氏より有力な情報あり。まずは、1882年(明治15年)4月20日の「函館新聞」。(不鮮明だが…) 【H氏の翻刻】 「○ 蝗害駆除 先に北海道蝗害駆除準備のため当道へ出張されたし農商務省御用掛准奏任官岡潔君より一昨日室蘭の雪は解けたり囚徒早く御廻しありたしとの電報が農務局に達せしにより かつて同局と内務省監獄局の月形典獄と約定し樺戸集治監へ送付になるべき囚徒五百名を右蝗害予防の人夫に雇入れられしを以て月形典獄が属官看守押丁を随え囚徒五百名とともに去る十八日東京出帆の明治丸に乗組み室蘭へ渡航せらるるにつき、農務局にては右蝗害予防に要する諸器械薬品天幕等を取り揃え同船にて廻漕されしよし。」 つまり、囚徒500人はこれから樺戸集治監に東京から送られてくる囚人たちで、それを明治丸に乗せて急きょ蝗害対策のために室蘭港へ回航したのではないかという説。明治15年4月当時、樺戸集治監には500人もの囚人が存在しなかったこともあり、吉村昭は「北海道監獄史年譜」(←書誌事項確認中)の「明治15年」にある記述「○ 四月、樺戸集治監囚人を胆振、日高、石狩の蝗害駆除に使役す」を「樺戸集治監→本願寺道路→胆振」と読み取ってしまったのではないか、という説。非常に説得力のある説に思える。 先の「バッタ塚」調査においても、この明治10年代の本願寺道路は荒れ果てていた時期にあたり、逃亡の危険性が最高度に高い陸路での500人もの囚人護送はおよそ現実性がないと考えられる。 <この質問は引き続き調査中> |
京極町にあったという「バッタ塚」の場所が知りたい。 (社会人/男性) |
● 「京極町史」(1977年発行)より「バッタ塚」 1977年発行の「京極町史」では「菅原源右衛門所有地の一部」「字川西132佐々木家の裏側」のキーワードは出てくるが、「バッタ塚」そのものについては「依然としてなぞ」との立場をとっている。 この疑問が大きく展開するのが1998年発行の「追補 京極町史」。「バッタ塚」の存在がついに解明された。 ● 「追補京極町史」(1998年発行)より「バッタ塚伝説」 後日、この質問者も北海道立文書館に赴き、同じ経路をたどって「テーウス」に行き着いたという。写真はその質問者の撮影。 |
アイヌの人たちと和人が協力して事を成したという話(実話)はないか。 (社会人/男性) |
「協力して」というニュアンスにあてはまるかどうかわからないが、京極町では「脇方鉱山」にまつわる有名なエピソードがあるのでまずそれを紹介した。 ● 「京極町史」(1977年発行)より「鉄山の開発と脇方線」 また、ちょうどこの時期、湧学館「後志の文学」読書会でとりあげていた作品 ● 「後方羊蹄(しりべし)日誌」 松浦武四郎/著 丸山道子/訳(凍土社,1973) を紹介する。(こちらは「協力して」にふさわしい内容) 関連して、読書会の参考テキストとして使った ● 「洞爺村史」 (洞爺村,1976) ● 「武四郎碑に刻まれたアイヌ民族 増補改訂」 杉山四朗/著(自家版,2006) も併せて紹介。 |
父が京極町甲斐地区の生まれ。明治41〜42年頃、祖父の代に山梨県から団体移住してきたのだが、当時のことを知る関係資料はないだろうか。 (社会人/男性) |
「京極町史」、武井時紀「北海道のなかの山梨」等の「山梨団体」基本資料はすでに調査済み。また、父・祖父の戸籍謄本もすでに取られている。 こちらで付け加えられる資料は、(当時の)倶知安村の「植民地区画図」コピーくらいであることを電話で伝える。 |
調べられていることが、まさにそのこと(謄本に出ている地番を、現在の地図上で特定したい)だったので、その日の内に来館された。 明治40年発行の @ 胆振国虻田郡倶知安ペーペナイ両原堅植民地区画図 A クッチャン植民地区画図 第二 より、Aに祖父の入った地番あり。 やはり部分コピーのコピーでは心許ないので、原本を所蔵している北海道立文書館の利用をお薦めする。(札幌在住の方なので使いやすいと思う) 他に、最新の参考資料として「BYWAY後志」第12号(2013.8)/梅田滋「幻の開拓移住碑と出会う」論文を紹介。 また、山梨県立博物館が2007年に「米キタ」「アスヤル」展を行った際の「北海道現地調査レポート」がHP上で見られることなどもお伝えした。 |
宮沢賢治「雨ニモマケズ」の原文が見たい。 (社会人/男性) |
「宮沢賢治詩集」の書架へ案内するも、「いや、こういうのではなく」との言葉で、この詩が書きつけられたあの有名な手帳の複製本のようなものを求められていることが判明。 (複製本は高価で当館では所蔵していないが)有名な詩なので、おそらく文学アルバムなどに写真があるのではないかと探した結果、 「現代日本文学アルバム 第10巻 宮沢賢治」に、全文の写真あり。 |
湧学館2階の展示史料の由来について知りたい。 (社会人/男性) |
展示物は、昭和40年代にあった「(京極町立)郷土館」の史料を引き継いだものであることを説明。 その「郷土館」を調べる資料として「京極町史」を見ておられたので、 ■ 京極町教育委員会二拾年史(京極町教育委員会,1972.11) の方が、一章を「郷土館」について設けてあり記述も詳しいことを伝える。 |
戦没者の遺書が載っている本を。 (社会人/男性) |
キーワード「太平洋戦争×遺書」で、以下の4冊を検索。 □ 国民の遺書 小林よしのり/編 (産経新聞出版,2010.7) □ 昭和の遺書 辺見じゅん/編著 (文芸春秋,2000.6) ■ 戦後六十年語り残す戦争体験 日野原重明/監修 (講談社,2005.7) ■ 知覧からの手紙 水口文乃/著 (新潮社,2007.7) □印の2冊を借りて行かれた。 |
家の物置から、木箱に入った古い文庫本のようなものがたくさん出てきたのだけど、これはどんな本なのだろうか? (社会人/女性) |
5冊ほどサンプルを見せていただいた時点で「袖珍文庫」と判明。本だけでなく(と言うより、本を手で触らないように)木箱全体を持ってきていただくようにお願いする。 |
………歴史が古く今日も刊行を続けているものとして、1867年に発刊されたドイツの『レクラム文庫』(レクラムス・ウニベルザール・ビブリオテーク)が世界的に著名である。わが国のものでは、冨山房(ふざんぼう)の『袖珍(しゅうちん)名著文庫』(1903)がもっとも早い。「袖珍」とは昔から小型本をよぶときに用いられた名称で、この文庫は当時輸入され始めていた『レクラム文庫』やイギリスの『カッセルズ・ナショナル・ライブラリー』(1886)に倣った国文学の校訂本だった。……… (日本大百科全書(小学館)/「文庫本」より) |
「袖珍文庫」の所蔵状況 道内の公共図書館・大学図書館………すべて所蔵なし 国立国会図書館………27タイトルを所蔵 (リストA) 大学図書館(CiNii Books)………34タイトルを所蔵 (リストB(集文館版)/リストC(三教書院版)) 木箱の中で百年間眠っていたためか、保存状態がたいへん良い。35冊の内訳は次の通り。(→リストD) 国立国会図書館にも、大学図書館にも所蔵がない「山家集」(袖珍文庫第56編)をはじめ、数々の美品にたいへん貴重な勉強をさせていただいた。 |
後志の市町村が舞台となった文学作品リストづくりに協力してほしい。武井静夫著「後志の文学」でとりあげられた作品は調査済みなので、できれば、それ以降〜現代までの作品をあげていただけるとありがたい。 (図書館関係者・男性) |
湧学館の「北コレクション」資料(小説)、ならびに、「後志の文学」講座でとりあげた作品群を基に、送られてきたリストに追補。 後志文学リスト |